昭和43年7月16日 朝の御理解

御理解第29節「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」



 有り難い時には、もうこのうえもないように有り難い有り難いと言うておる人が、いつのまにか、それこそ桜の花が散るようにぱっと冷めてしまう人がある。そういう信心を桜の花の信心というように、言われとるのじゃなかろうかとこう思う。もう金光様でなからにゃならんように言いよるです。有難い有難いと言やあ、もう嘘でもなさそうな、それが何かの拍子にひとつも有難くなくなってくる、ね。
 それは人間ですから、いつもかつも有難いというのじゃない。けれども信心は有難くない時にでも、心の底から有難くなからなければないほどに心の底から金光様金光様とこう、金光様を唱えなければおられないという信心。そういう私は信心が有難い。言わば、辛抱しぬかなければという信心。そういうことを私は思うのですけれどもね、いわゆる寝ても覚めても金光様。
 言うなら祈りに明けて祈りに暮れさしてもらう信心。朝から晩まで金光様と唱え続けさして頂くという信心。目覚めに夜中に眼が覚めましても、やはり、もうまず金光様唱えておるというほどにです、金光様が私共の中に入ってしもうても、頂くというような信心。信心ばかりはですね、心でするもの。これはあの、信心でん、何だって心を込めるとか、心が伴わないとできることじゃないのですけれども、心なしにできることも沢山ありますよね。
 例えば女の方たちは、もうお炊事をするにもですね、もう毎日慣れてまいりますと、心を、心をもってしない、ただ形だけでしておる、お商売でもそうです。毎度有難うございます、おおきにとこう言うておるけれども、それはもうただ、口癖、ね。心というものは伴うてなくてもできるのですけれども、信心ばかりはそれじゃあできんのです。信心、信心ばかりはですね、心でなされなければ、ね、いわゆる神様に通わない。いわゆる目に見えない神様を目に見えない心でなすものです。
 ですから、これはもう、どうでも心が伴わなければ信心はできんのです、ね。それを例えて言うと、何事にも信心になれよと仰るから、だんだん心でなさしてもらう、いや心でしなければ信心が成り立ちません、ね。ですから、例えば女の方がご飯を炊かせて頂くでも、ね、お洗濯をさして頂くでも、何事にも信心になれよと仰るから、心を込めて、選択ができ、心を込めてご飯炊きができる。
 いわゆる心を込めて、お客さんに接することができる、ね。そこからなら、良い家庭の、言わば女の方たちの御用が、良い御用ができるように、ね、良い商売というのは、私はどうしても心を込めた商売でなからにゃいかんと思う。心を込めてのもの、いわゆる何事にも信心になれよとは、そういうことだとこう思う。

 そこで、私共がだんだん、寝ても覚めても金光様がですね、唱えずにはおられないところまで、金光様を頂きたい。私は昨夜、休ませて頂いたのが12時ちょっと過ぎでした。昨日からあの、ルームクーラーが部屋に入れてございます。ところが、去年お供え頂いたんです、去年はそうでもなかったんですけれども、今年はどういうもんか、もう音が非常に激しいんです。しかも、小さい家の私の枕元にありますから、どうしても眠られない。
 もうあちらへ寝返りうったりしておるうちに、もう1時半。とうとう、起きて行ってから止めました。音がせんようになったから、静かになったから、もう眠りはずれるというですか、ですから、初めの間は部屋は冷えておりましたけれども、ああしておるうちに今度は蚊がぷんぷん出だしてきた。蚊帳をひいてませんから。
 そしたらもう3時。そしてそれを覚えておってから、休ませて頂いて、目が覚めたのが3時半ちょっと前ぐらいじゃった。もう慌てて体を拭くひまもなしに、汗のべたべたしておるのを(?)に(?)してもらってから、ようやくお広前出てきた。今日は3時、もう40分ぐらい(?)ましたでしょうか。
 もう不快指数ということを申しますね。もう不快なことこの上ない。何か体がべたべたしておる。それで私はご神前に出らせて頂いてから、今日はもう本気ひとつ一汗かかせて頂こうと思うた。もうですからもう、本気で今日は一汗かかせて頂こう、もう御祈念、ひと御祈念終わりますと、汗びっしょり。これはあの、皆さんは大祓いあげたら、(?)されるから、当然汗が出ますでしょうけれども、私は心で、いわゆる心中祈念だけですけれどもね、心中祈念でも一生懸命いたしますと冬でも汗が出ます。
 ですからそういう不快の中にですね、とにかくその、べたべたの汗の中に御祈念を終わらせて頂きましたら。そしてもう先日、あるものの本を読ませてもらいよりましたら、アメリカの商社が日本にやってまいりますね、(?)なら(?)ができます。それにはね、その日本の夏というのは非常にその、不快な夏だからその手当てがつくそうです。初めて聞きました。私共はもうこれが当たり前と思ってますけれどもね、北海道以外の日本は全部、その手当てがつく。
 手当てをつけなければ日本はいやだというくらいに日本の夏は不愉快なものらしいですね、ね。ですから私は今日はとりわけ、そうした不快な状態の中に御祈念をしてもらうのだから、ね、それだけ特別な手当てを頂こうと思うたんです、いわゆる元気な心です、ね。元気な心で信心せよと。
 例えば暑いにつけ寒いにつけです、暑けりゃ暑いで寒けりゃ寒いでです、ひと修行さして頂こう、不快であれば不快であるだけひとつ不快な修行をさして頂こうと、こちらがはまっていくところにです、不快が不快でなくなってくるです、ね。暑いことも有難くなってくるし、寒いこともまた有難くなってくるです、ね、初めはやっぱいやです。
 夕べ寝ておる間は、もう実にもう、すがすがしい眠りに入りたいというので、実際けれどもいよいよ、御神前に向かわせて頂くと、こんなことじゃいかんという、いうふうに、いわゆるもう本気で一汗かかせて頂こうという気になってさして頂いたら、ね、何か知らんけれども、特別手当を頂いたように、いつもの御祈念よりも有難い御祈念ができておる、ね。私は信心辛抱梅の花とこう言われるのはね、そういう時にですね、元気な心で、心で本気でその修行をさして頂こうという気になっていくところにです、ね、苦しいことでもなからなければ、ね、何というかね、大丈夫というかね、いわゆる誰が来るといったようなこともない、おかげを受けられる。
 そこんところを辛抱させて頂くような信心が、私は今日のとこの梅の花の信心という、ね、その辛抱しぬき、しぬかせて頂くそこの中にです、いわゆるそういう辛抱させて頂かなければ、味わえない新味というか、味わいというものが生まれてくる。不快な、ね、不快指数この上もないような中に、御祈念をさして頂くということにです、ね、もう汗ん出らんごと汗ん出らんごと、というのじゃなくてから、本気でひと汗かかせて頂こうという中にです、汗の出ることが有り難くなってくるんです、ね。
 それが、私はあの、信心、いわゆる元気な心で信心することであり、そこを辛抱させて頂くことが梅の花の信心だとこう思うです。気持ちのよい、涼しい、清々しい中に御祈念ができるということも有り難いけれども、蒸し暑い蒸し苦しいような中に、こっちからひとつ、それこそ蒸し風呂の中に入って修行でもさして頂くような気持ちでです、こちらが本気でさあ、ひと修行させて頂くぞという、さあという元気な心がですね、私はどうでも必要である。
 それを欠きますとですね、いわゆる有り難い時に有り難いけれども、ね、有り難くなくなってくるともう一遍に冷めてしまうようなことになってくるのじゃなかろうかとこう思うのです。
 例えば、嫌な関係とか、ね、嫌な気分であると、本当に不快このうえもないと、という時にはそういう修行をさせて頂くということにこちらが、やはりはまるんです、ね。
 そこに私は不快なら不快でなからなければ頂けない手当てがつくようなおかげが受けられると思うのです、ね。だから、ね、有り難い時は有り難い、有り難くない時には有り難くない、ね、言うならば一遍にすぱっとこう、信心が咲いた花のように、またはそれがすぐ散ってしまうような状態の信心では、ね、今日私が申します、寝ても覚めても金光様。
 祈りに明けて、祈りに暮れさしてもらえれるような有り難い信心の一日は生まれてこない。それでは何事にも信心になれよと仰るけれども、ご神前だけでは金光様だけれども、もう商売の場に出ると金光様が出らなくなってくる。いわゆる心ない商売をする、心ない洗濯をする、心ないご飯炊きをする、ね。それではです、金光様のご信心がおかげにならん。何事にも信心になれよと、ね。家業の行というて、家業をしておることだけが行じゃない。その家業の中に金光様が生き生きとして、言うならば唱え続けられるというか、生き生きとして、金光様のご信心が入っていって初めて、家業の行になるのです、ね。
 金光様を忘れてしもうておるような家業で、ならその家業は家業でしょうけれども、行にはなりません。この方の行は火や水の行ではない家業の行と仰る、その家業の中に金光様が入ってござる、ね。
 気分の良い時だけが信心ではなくて、ね、気分の悪い時にもやはり信心、ね。いや、気分の悪いのに気分の悪い時ほど、真剣な金光様、それを私は今日は信心辛抱、ね。辛抱さしてもらう。いわゆる梅の花の信心。そういう苦労をしておるから、私は長う散らんと、ね。梅の花が寒中に、ね、(いくふく?)とした香りを辺りに放つようなものです、ね。他の花に先駆けて、匂い咲くようなものです。しかもそれが、ね、いよいよ花が咲きますと、その花にはうぐいすが飛んでくる。
 その辛抱もなしにうぐいすだけが来てほしい、うぐいすが来て止まるもんですか、ね。そういう信心辛抱のできる、そういう家庭に、そういう人の心の上にうぐいすが来て止まるのです、ね。うぐいすだけを来てほしいといったような信心じゃだめ、ね。同時にそれには、ね、昴のあの青い梅の実が実る、ね。それが徳になる。梅干という徳になる。いつまで置いても悪くならない。どんなに体が悪い時であれ、時だけでも、時でも、梅干なら障らんと言われておるくらい、ね。
 結局、お互い、梅の花のような信心さしてもろうてです、梅干のようなお徳を受けたい、ね。それに、今日はもう不快でたまらんから今日はご無礼しようといったような信心じゃあつまらん。気分の良か時だけなら誰でんする、ね。今日ばっかりはもう気分が悪い、神様に向う気持ちもしない。そういう時ほどです、私はそこが、こここそ、梅の花の信心だというふうに思わせてもろうてです、そこを私は辛抱しぬいていくところにです、ね、それこそ(いくふく?)とした、梅の花の香りをですね、周囲に放つようにです、そういう時でなからなければできない信心の、いわゆる本当の新味というもの、味わいというものが頂ける。
 それを私は今日は、ね、不快指数の高い日本の、にはね、手当てがつくというようにです、そういう時に、言うなら金が残るという、ね。そういう時に徳が受けられる、そういう時に特別のおかげが受けられる、ね。ですから、どうしても元気な心が必要です。同時に私は信心ばかりは他のことは心を込めなくてもできることがありますけれども、信心ばかりは心でなすもの、心でなすもの、ね。
 心を込めなければ信心にはならない。( ? )じゃ信心にはならない、心を込める。だからいつの場合でも心を込めさして頂くことに精進さしてもらう、ね。そういう信心が土台になって、ね、心を込めることの稽古ができておるから、何事にも信心になれよと仰るように、ね、家業の行の中にも心が込められる。有り難うございました、またどうぞと言うだけの口だけのものではなくて、心から有り難うございます、またどうぞが言えれるから、それが相手のお客さんならお客さんに通わないはずがない。
 もちろん、神様に通わんはずがない。この方の行は家業の行というのは、そういう意味だと思う。ただ、家業をしておる、百姓なら百姓が一生懸命、百姓仕事をしておることが行じゃない。その中に心が込められると、ね、金光様が生きてござる。金光様が通うてござるから、私はその百姓の仕事そのものが修行になり、それは修行として神様が受けて下さるんだ、これは商売でも同じこと。それにはどうでも、ひとつ、自分の気分の良い時だけ、それはもう、金光様が有り難かと、ね。
 もうこの上もないこと有り難い有り難いと言えるかと思うとぱっと冷めてしまう。桜の花が散ったように、そういう信心を今日は桜の花の信心のように申しました。ね。そういう時に、そこんところを辛抱しぬかせて頂いて、そういう時でなからなきゃ頂けない、新味に触れていくという信心を、梅の花の信心と申しました。
 そういう苦労が積み重ねておる、られておるから、長う散らんと御教えにありますようにね、そういう苦労が積み重なって初めて、ね、うぐいすも来て止まりゃあ、梅の実も実る。いわゆる徳にもなるというわけですね。どうぞ。



明渡真